京都に知る人ぞ知る洋書専門店がある。洋書と言っても学術洋書の専門店である。今回は、古都にひっそりとたたずむ、そんなディープな書店についての話である。
京都市の北部、地下鉄烏丸線北大路駅から少し南に下ったところにその書店はある。
北大路駅を南下するとすぐに大谷大学が見えてくる。そこを過ぎると煉瓦造りの小さな書店がぽつり。
今回紹介するお店、至成堂書店である。
至成堂書店は学術洋書専門店として、京都にある多くの研究者を支えてきた。まさに由緒ある書店である。
普通の書店とは違って、品揃えは専門書に特化している。流行の小説や啓発本みたいな本は無論、扱っていない。
この書店に並ぶのは、人文学に関する本格的な学術文庫ばかりなのである。

入り口のドアは小さい。外からは中の様子はほとんど見えない。
そこでひるまず思い切って扉をくぐると、1階には哲学書・文学書を中心としたドイツ語・フランス語の文献が並んでいる。
入ってまっすぐのエリアが独書で、右側は仏書になっている。
哲学なんて全く縁のない私は、整然と並んだ知の結晶にただただ立ち尽くすばかりである。
その辺の本に目をやると、ヴィトゲンシュタイン・ヘーゲル・カントなど、そうそうたる大哲学者の名を冠した書物ばかりである。
中には文学に関する本なんかもあるが、どれも本格的な内容でなかなか凡人の理解が及ぶものでは無い。
私はこの店に何度も通って、いつだってパラパラと適当に手に取ってページをめくるのであるが、哲学コーナーで「読みたい」という書物に出会ったことはついぞなかった。
ドイツ語フランス語が全くわからないときも、ちょっとわかるようになってからも、随分わかるようになってからも、このエリアは私の知見の及ぶ範囲を超えた本ばかりである。
文学に関しては、研究書は豊富だが、文学作品そのものはそれほど多くない。謂わば、研究者のための場所といったところである。
文学作品そのものを手に入れたいなら、京都では地下鉄を何駅か下って、四条烏丸の「丸善」に行けばいい。丸善は英書だけでなく独書・仏書の品揃えも関西随一の書店である。信者はいまだに檸檬をもって「参拝」するという話も聞く場所である。
さて、至誠堂。
入り口を入って右の方に、2階へと続く階段がある。この階段の手前には、ドイツのレクラム文庫が並んでいる。
レクラム文庫と言えば、その昔、日本の岩波文庫のモデルとなった由緒ある文庫であある。岩波文庫のモデルと言うことは、ひいては日本の文庫本すべてはこのレクラム文庫を模範に生まれたと言っても過言ではない。
このレクラムコーナーは、恐らくこの書店で最も安価な本が並ぶエリアである。私のような貧乏人でも手が出るような値段設定になっている。
ただ、レクラム文庫は正直私はあまり読書に使ったことはない。理由はただひとつ、字が小さすぎるからであある。
品質の良い出版物が出回る独書界隈において、レクラムが選択肢に上がることはあまりない。文学作品を普通に読むならdtvやKiepenheuerなどの大手出版は手軽で読みやすい。
そういえば、私がはじめて買ったレクラム文庫は、カフカの『変身』であった。アマゾンで300円ぐらいだったのを覚えている。
結局レクラムでは読むことができず、Anacondaという別の格安出版社のハードカバー版で『変身』は読んだ。
そんなことを思い出しながら、至成堂の階段を2階へと登る。
階段を登り切る少し手前から、ギリシャ・ローマ関係の作品が並んでいる棚があられてくる。古典作品の独訳・仏訳の小さな棚を過ぎると、Loeb叢書のエリアである。
Loebはギリシャ語・ラテン語の文献とその英訳からなる文庫シリーズである。古典作品の原文と現代語訳はほぼこの文庫で読むことができる。
ホメロスを始め、エウリピデース、ヘロドトス、アポロドーロスなどのギリシャ語作品は緑の装丁に包まれている。ウェルギリウス、キケロ、カエサルなどの著作が名を連ねるラテン語作品は赤いカバーである。
私も学生時代、このLoebを何冊か所有していた。
版が古くなって、昔の岩波文庫のように活字が潰れて読みにくい作品も多かったものである。
エウリピデースの『ヒッポリュトス』を右ページの英語だけ読んで、いつかギリシャ語ですらすら…なんて夢見たものである。エウリピデースやアリストパネースの作品は、改訂版が出た後だったので、なんとも気持ちのいい新しい活字であった。
2階に登り切って正面には現代史や社会に関する書物がある。
その一角を過ぎると、道路に面して、西洋の古典文学の研究書・語学書が積まれたエリアがある。
このエリアを見ながら私はラテン語の辞書を吟味したものである。
羅英辞典、羅仏辞典を見てもしっくりくるものはなく、結局、PONSのLatein-Deutsch(羅独)辞典を使うことにしたこともあった。
当時は大学の授業でオウィディウスの『変身物語』を読んでいた。羅独辞典を引きながら、(私にとっては)難解な詩句を1行1行読み解いていたものである。受講者3人のごく小さな演習の授業であった。
最後の授業で試験があったのだが、私は全然できなかった。
20行ぐらいのラテン語を訳すだけの試験だったが、辞書を使っても私にほとんど理解できなかった。
それでも大学の先生は最低点の60点をくれて単位をくださった。
そんなこともあったなんてことも思い出されるコーナーである。

そのほかのエリアは、宗教学、美学美術史、科学哲学などの文献が並んでいる。
私はこれらのコーナーにはあまり縁がなかった。2階には1階と違って英書が多い。
一方でギリシャ・ラテンの書物がひしめくエリアは、あらゆる情報が手に入る現代においても、かなり独特の味をもつ場所ではないだろうか。
2階のLoebから1階のレクラムへと続く急な階段は、さながら知のタイムマシーンである。古典古代から現代への階段を降りた後は、また同じように小さな入り口から外に出る。
外は烏丸通。古都の中心を南北に貫く大通りである。車が走り、大学生が自転車で通り過ぎる。
小さな扉のガラスを通して至成堂の中を見ると、そこは小さなカプセルのよう。
そこだけ時が止まったかのような、そんな重厚な空気感の中で、本たちは静かに手に取られるのを待っている。
アレキサンドリアのような華やかさはない京都の小さな書店の中、知の泉は絶えず人々の「ことば」を湛えて静かに時を超えるのである。