年号は変わりゆくのは象徴的ですが、時代は変わり、学校を取り巻く状況も変わっています。私は3月まで、とある普通の公立高校で英語を教えていました。今回は、その経験から、日本の学校と英語教育の現状についてまとめてみたいと思います。
最初に確認しておきますが、あくまで私がいた学校の話です。できるだけ事実をありのままに書くようにしました。普通の公立学校ではこのような光景が見られました、という話です。もちろん全然違う学校もあるでしょう。
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学校の現状
日本の学校は以前から随分厳しい状況に立たされています。学校をめぐるニュースが明るい話題のものであることなどほとんどないような気がします。
先生の仕事
教員の長時間労働や業務の多様化は多くの注目を集めています。小学校や中学校では多くの先生が過労死ラインを超える勤務を強いられているのが現状です。
高校でも教科指導以外の業務が多すぎるという話はよく聞きます。高校は、小学校中学校よりも教科の専門性が要求される場です。そこでも確かに教科指導以外の業務はあります。(私はこれを批判しているわけではありません。ただ事実を述べているだけです。)
私も1年目のときは新人とのことで分掌業務はかなり軽減してもらっていました。そのため、教材研究にはかなりの時間をできました。
当時は、新たな単元に入るときにすべて教材を完成させて冊子で配布していました。毎週のように担当している全生徒の英作文を読んで、添削して、コメントをつけるぐらいの余裕はありました。
2年目になると教科外の仕事が大量に舞い込んできました。それまでとは違い、教材研究にかけられる時間は随分減りました。学校内の仕事ももちろんですが、管理職の方針もあって、学校外の機関との仕事も山のようにありました。
教材は直前に用意し、生徒の英語を添削する時間などはほとんどなくなりました。もちろん、夜遅くまで残って土日も出勤したらこれらをこなす時間はあったでしょうが、体力的に私には無理でした。
繰り返しになりますが、私は別に教科外の仕事があることを糾弾しているわけではありません。日本の学校における先生の仕事として、こういった業務があるということが完全悪であるとも思いません。
生徒指導もあって、学校の業務もあって、部活もあって先生である私は思っている方です。もちろん、教科指導はメインではありますが、日本の先生の仕事はそれだけではないし、ある程度はそれでいいと思っています。
そして、割り当てられる仕事によっては教科指導に専念できないということがあるのは事実です。誰が何を思おうと、事実はこうです。
休職退職はいる
多くの会社と同じで、学校も上司がどのような人物であるかが環境を大きく決めます。公立であってもそうです。
私の学校の場合は、管理職が学校外の仕事を大量に持ち込んで個々の先生がその業務にあたるという事例が多かったです。学校によっていろいろだと思います。
これによってももちろん業務量は増えます。管理職が仕事と人間の負担、職場で抱く感情に敏感であれば、学校はうまく回るものだと思いまが、なかなかそうもいかないのが現状です。
しかし、その学校の方針の下、私の学校には心労や疲労で休みをとったり辞めたりする先生はたくさんいました。私は別にここで学校や特定の人の批判をしているわけではありません。ただ、そういう事実があったということを述べているだけです。
すべての学校がそうかはわかりません。むしろ、私の学校は休職・(早期の)退職が他校に比べてもかなり多いと言われていました。
部活
ニュースで話題になるのは部活による教員の負担ですね。部活大好きと部活大嫌いの争いは終わるところがありません。
私の学校では、部活でどれだけ拘束されるかは、「運」によるところも大きかったです。先生は必ずどれかの部活の顧問にならないといけません。楽な部活の担当になると、実質部活動はないのも同然です。
逆に経験もないのに土日も毎日活動するような部活にあたると大変です。これは希望をとって4月に決まります。もちろん誰もが希望通りになるわけではありません。私の学校では、「若い」「男性」は基本運動部を担当していました。
私はまったく経験のない運動部の顧問になりました。1年目は第3顧問としてのんびりやっていました。2年目は他の先生が転勤になったので、主顧問をやった時期もあります。全く知らない競技ですが、監督として公式戦に出場したりもしました。
これも、学校では普通に見られる光景だと思います。最近はこういった現状に対する風当たりも強いので、部活は縮小傾向にあります。
休養日を設定するように教育委員会ははたらきかけています。その結果、活動予定表をとりまとめて休養日を申告しないといけません。私の学校では、活動しているにもかかわらず体裁上必要なので、予定表には休養日としている部活もありました。
部活好きの先生からしたら嬉しくない変化でしょうが、こういうことが起きているのは事実です。この風潮はもっと進行していくのではないかと思います。
私は土日も部活のために学校や校外に行くことは多かったです。多いときは1ヶ月のうち、土日が休みなのは2日とかでした。普段は土日のどちらかは休みで、どちらかの半日が部活という感じに他の先生と割り振っていました。手当はもちろん出ます。(大学生のバイトぐらいです。)
私は別に部活はやりたくない、なんて立場でもありません。何より生徒がとてもいい子たちばかりだったので、部活は全然苦ではありませんでした。
顧問は全く素人の部活にもかかわらず、生徒たちは自分たちで考えながら一生懸命練習をしていました。素晴らしい生徒に恵まれたので、先生の仕事のひとつとして、部活は良い思い出になっています。
ただ、もしこれが知らない競技である上に、しんどい生徒ばかりだったら状況も違っていただろうと思います。やりがいが感じられないような部活ならただ単に休日を奪ういやな活動となってしまうかもしれません。
あと、先述の通り、部活は基本的に「運」です。私と同世代や同じ立場で実質部活も何もしていない人ももちろんいました。
先生になりたくない
こういった学校をめぐる労働環境があしざまに報道されているせいか、教員を目指す人の数も減っているようです。教員免許無しでも先生になれる制度を導入しようとしている自治体もあるぐらいです。
そうはいっても、もちろん先生になりたいという子どももいます。私がいた学校は一応「進学校」と言われるような学校でした。教育学部に進学したい子も多かったですし、先生になりたいという子も1クラスに複数人はいました。
ただ、「先生なんて絶対なりたくない」ということをやたら強く表明する子もいます。「なんで先生なんかなりたいか分からん」と言う生徒も多いのは、主に昨今の報道が影響していると思います。先生になりたがる人をちょっとばかにするような人もいます。
「なんで先生なんかなったん?」と先生に聞く生徒もいます。特に、学歴がある先生には、子どもも大人も多くの人が「なんで?」みたいなことを聞きます。
これは子どもだけでなく、現職の先生にもあてはまります。先生が「先生なんかなるな」「やめとけ」なんて言うのは、当たり前のように目にする光景です。
これについてどう思うかはその人によると思います。ただ、私はここで事実を挙げているだけです。
学歴があるひとが先生を辞めると言うと、「そりゃそうやな」と言う先生は随分多いです。恐らく、難関大学卒の公立校の先生は、自分の仕事と世間の認識の「ずれ」と一生付き合っていかないとけないのかなと思います。
私はどこの大学を出て何をしようが別にいいんじゃない?と思うのですが・・・。まあ、私のような何にもしていない「だらしな人間」が言ってもしょうがありません。
まあでも、「先生なんてやめとけ」と言う資格があるのは、先生を辞めて他の仕事をある程度継続してやっている人だけだとも思います。先生が「先生なるな」なんて言うのは、本人は満足なのでしょうが、やめたらいいのに、と私は思いますね。
英語教育
以下では英語教育について、現状を掘り下げていきましょう。公立高校の英語教育はどのようになっているのでしょうか。どのような人が教えているのでしょうか。
高校英語の現状
ここ十数年の間、「英語の授業は英語で」といったことや「文法訳読はやめましょう」みたいなことはずっと言われてきました。
その結果、私が高校生だった10年前から、英語の授業は大きく変わっています。
高校には「コミュニケーション英語」と「英語表現」という2つの科目があります。前者では文章読解を軸に、インプットから自己表現までさまざまな内容を扱います。「英語表現」では、英作文などのアウトプット活動にフォーカスしています。(私の学校ではしていました。)
「英語の授業は英語で」という建前なので、先生の多くは、生徒への指示や「いまからこれをしましょう」みたいなことを英語で説明します。読解を中心とする「コミュニケーション英語」でも訳読は最小限で、音読や読んだ内容についての意見を述べたりする活動が重視される傾向にあります。
「英語表現」はどちらかというと文法をがっつり扱うという感じでした。高1の4月から、文型、時制、助動詞…という感じで文法事項を一つ一つ学習していくのが中心です。
私は「コミュニケーション英語」では、5割ぐらい英語で授業をしていました。「英語表現」はほとんどすべてを日本語で説明していました。
ちなみに、学校や学年によりますが、先生によってはまったく我が道を行く人もいます。時代が変わろうが、制度が変わろうが、自分のやり方を変えない先生もいました。
「昔ながらのやり方で」予習で教科書を全訳させて、授業ではその訳の確認という先生も実際いました。そんな先生も「英語の授業は英語で」の先生と共存していたわけです。
英語教師の英語力
文科省の調査によると、中学校では7割程度英語で授業をしているそうです。高校では教科によりますが、だいたい5割前後です。
一方で、B2(英検準1級レベル)の英語力を取得している先生は、中学で36.2%、高校で68.2%となっています。
この数字が必ずしも事実を表しているかは分かりません。少なくとも高校でB2レベルの先生は(資格を持っていないだけで)実際にはさすがにもっと多いのではとも思います。
B2レベルぐらいないと、高校だろうが中学だろうが英語を教えるのは苦しいのではないかと思います。むしろ、B2レベルにも達していないのに7割程度を英語で授業できるというのはいったいどんなからくりなのか疑問ではあります。
私の感覚では、それなりに英語を使いながら説明したり、とっさの応答ができるレベルはC1でやっとかなというところです。しかし、C1以上の資格を有する英語教員は、現実ではほんの一握りになります。
ある英語の先生は、「先生に英検1級なんていらない」と断言していました。私として、先生がこんなこと言っているうちは、どれだけ制度が変わろうが日本人の英語力は変わらないのではないかと思います。
実際、多くの先生は「英検1級を持っている」とか「今度受けます」というと、結構驚きます。「すごいですね~」と言う英語の先生も多いです。
私は、高校の先生なら、持っていないにしても、少なくとも1級レベルぐらいに近づくような努力はしていかないといけないのではと思います。
まあでも、英検1級を取得すると、今度はお決まりの「なんでそんな力があるのに学校の先生なんてなろうと思ったの?」です・・・。
どう言おうと、これが現状です。
ちなみに文科省は、入試改革の流れの中で「高校卒業までにみんなB2レベル」を標榜しています。どうなることやら。(現状はA2です。B1ですらありません。)
4技能改革
学校の英語教育ですが、大学入試改革の流れもあって、大きな転換を迎えています。英語の入試には外部民間試験を活用し、スピーキングやライティングを導入しようというのが大きな特徴です。
対象となるのは、現在(2019年時点)の高校2年生からです。「共通テスト」と「民間試験」の組み合わせで、従来のセンター試験に代える試験とする、というのが当初のコンセプトでした。
この改革、実際には、問題が山積み過ぎるぐらい山積みで、現場の人間も渦中の高校生もどうしたらいいのかよく分かってないというのが現状です。
今の高校2年生は入学時から「4技能世代」なんて言われて、おそらく多くの学校でコミュニケーションを重視した何らかの活動を取り入れていると思います。ただ、実際には本番の入試がどうなるかは誰も分からないというのが現状です。大学側は、東大を始め、多くが民間試験を実質採用しないことを表明しています。
一方で、学校の教材は「4技能」に合わせて変わっています。文法を順序立てて解説した教科書はなくなると言われています。場面に応じて言語を使いながら表現を学んでいく教科書ができてくるようです。
しかし、実際にはそんな曖昧な教材では学習できないので、多くの学校が教科書以外の副教材として従来式の文法教材を用意し、実際の授業はそれに基づいて進んでいくのではと予想している人もいました。(実際いかにもありそうなことです。)
恐るべきGTEC
4技能の流れの中で、多くの学校ではGTECというベネッセが実施している民間試験を採用しています。
この試験によって私の期待は完全に裏切られたと言ってもいいかもしれません。
このGTECという試験にはエッセイライティングがあります。生徒が受験した英作文はベネッセに送られ、添削されたうえでスコアと一緒に返却されるということになっています。
私は、この返却答案をみて本当に愕然としました。添削ははっきり言って、めちゃくちゃです。正しい単語に下線が引いてあったり、語挿入の指示が違う単語についていたり、間違っているのに素通りであったり、まったくとんでもない添削でした。
私は自分が担当しているクラスの英作文を全員分読んで、添削ミスにはすべて付箋をつけて返却しました。1クラスで30枚近い付箋の数でした。
また、採点されるスコアもとんでもないものでした。普段はそれほど英語の成績が高くないクラスの平均点が、ライティングだけはねあがっていたのです。個人の点数を見てみると、名前順の初めの方の生徒だけ、不自然すぎるぐらい高い点数が与えられていました。
このGTECにはスピーキングもあります。タブレットと安っぽいヘッドセットを使って音声を吹き込むという形式です。
これを教室で実施すると、誰かがしゃべり始めてからようやく話し始めたり、みんな話すのをやめたら自分の解答時間が余っていても解答をやめてしまう生徒が続出しました。
4技能を入試に導入するといって、現状はこうなっているわけです。
英作文の採点など本当にとんでもないのですが、ほとんどの英語教員は、生徒のエッセイライティングをいちいち読んだりしません。それ以外の業務が多いからです。業者から返ってきた答案を生徒に返して、平均点を見るだけです。
「とんでも採点」が起こっているのに、多くの先生はそれすら知らずに点数だけを見ています。管理職はとりあえずGTECをやるように指示するだけです。
これが4技能を導入しようとする動きの現状です。こういった学校は決して珍しいものではないはずです。
これについて、少なくとも英語の先生は返却された答案ぐらいは忙しくても目を通すのが必要ではないかと私は思います。まともな英語の先生ならあの採点の問題点はすぐに気づけるはずです。
問題点に気づけないと何をやったらいいかも分かりません。
まとめ
以上、私が見た学校の現状、そして英語教育の現状です。
繰り返しになりますが、あくまで私のいた学校での話です。全然違う状況の学校もたくさんあるでしょう。
できるだけ事実が直接伝わるようにしました。
私としては、学校の英語の先生というのは今でも憧れの仕事ですし、塾や私立よりは公立がやはり一番魅力を感じます。なんだかんだで好きなことも多いからです。
ただ、「なんで先生に?」というやつだけはそろそろやめてほしい。私が一番言われて苦しいのはこの台詞です。
そして、英語業界は、「普通の英語を普通に使えるような」、そんな英語力をつけていく方策が必要なのではないかと思います。
こんにちは。いつも楽しく拝見しています。GTECは評判が悪いようだとは思っていましたが、想像以上にひどいのには驚きました。子供の学校で取り入れるようなことがあれば注意してみていたいと思います。
中学生の親 さん
こんにちは。
お読みいただきありがとうございます!
GTECもいろいろ変化はしていますが、絶対的な採点者数を確保することは容易ではないため、採点の質が格段に向上するとはなかなか思えないです。
バイトが採点するにしてももう少しやりかたがあるのではと思います。
もちろん、IELTSやTOEFL、ケンブリッジ英検のような世界的に認められている「お高い」試験でも万人に公平な採点がされているとは限りません。しかし、やはり経験を積んだプロのネイティブが採点している試験とGTECは採点の質において歴然たる違いがあるのは事実です。
いずれにせよ、この事実に対する認識度を上げていくのは必須だと思います。
私は某公立学校の高校教員です。今、うつ病で休職しています。ムリヤリ転勤されてその学校がベネッセに支配されていました。前任の高校では持ったことのない科目と週18時間、更に担当と今まで持ったことのない部活を持たされました。もう一人の顧問は女性で小さいお子さんがいて、土日の部活はムリと言われました。実際に仕事をしてみると週20時間以上の授業とは自分のやり方ではないパートナーの先生のやり方に合わせなければなりませんでした。それはベネッセの英語教育に、GTECに合わせたやり方でした。前任校でもGTECは文部科学省の調査でしたからやりましたが、自分一人しか英語教員がいない学校でGTECをやるのは大変でした。
長年指導してきて競技団体の理事長になった部活も持たせてもらえない(しかも再任用で1年しかいない人を顧問にして、自分がなった部活の顧問は前任が残っていたことがわかりました)
スタサポやらGTECやらeポートフォリオと教員を奴隷にするベネッセと、今まで地域の競技活動に貢献してきたことを無視する今の職場、学校に対して絶望しました。30年教員をやってきた評価がこれなんですね。今は死なないでいるので精一杯です。