学校の先生はやっぱり特殊な仕事だと思います。それ故に、学校の先生にありがちな特殊な体験も多いものです。今回は、「英語教員あるある」ということで、普通の学校の英語教員にありがちなことを紹介します。
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めっちゃ英語できる生徒を恐れる
英語教員の英語力は、文科省の調査によると英検準1級レベル(CEFRのB2)が高校で7割程度とされています。
高校の英語の先生ならほとんどの先生がB2レベルであるのは事実でしょう。大学入試のレベルを考えると当然のところです。
もちろん、そんなレベルの英語力なんて求められない学校もあるのでしょうが、いずれにせよ、英語を教えるとなるとB2ぐらいの力は最低限ないと厳しいでしょう。
一方で、英検1級レベル(C1)の先生は一気に数が減ってしまいます。公立では随分少数派になるのではないでしょうか。私も教員時代に英検1級を取得したのですが、結構まわりの英語の先生からは、「すごいですね~」とか「私には無理ですね」みたいなことを言われました。
やはり日本では英検1級レベルぐらいある人は、公立校の英語教員としては珍しい方であると言えます。そのぐらいのレベルの人はわざわざ大変な教員なんかやらずにもっと「良い」仕事をしたらいいみたいな風潮があるのも事実です。
そんな感じなので、英語教員は「英検1級持ってます」みたいな人が現れることを実は心の中で恐れているようなところもあります。それが生徒だったらもっと怖いものです。実際、帰国子女だったりすると、相当英語が出来る子どもというのも珍しくはありません。
私が在職していたとき、教科会議で、「英検1級持ってる子がいるらしい」みたいな謎のデマが流れたなんてこともありました。(実際には2級の間違いでした・・・。)
子どもで1級とか、いや~怖い怖い。
生徒が英語力を試してくる
生徒はなんだかんだで先生のことをよく見ています。特に進学校ともなれば、生徒からの先生の評価も厳しきなりがちです。
「この先生、英語できるのか」みたいなことを試してくる生徒もたまにいます。(私が無能な印象を垂れ流していたかもしれませんが。)
生徒はよく、学校で使っている英単語帳の難しい単語を使って先生の単語力を試してきます。
「せんせ~ ○○はどんな意味でしょう?」
周りの生徒も、さて、お手並み拝見とばかりに寄ってきます。
「え~っと・・・」みたいにちょっと迷うそぶりを見せると、もう嬉びますよ~。
「あれ~知らないんじゃ?」といった具合です。
意味を答えたら「お~ さすが。じゃあ次は・・・」みたいな問答になるわけです。単語帳をめくりながら、「絶対知らんやつあるはずや」と言いながら先生の知らなそうな単語を精選し始めます。
ちなみに、私は単語を訊ねられたら次のように応戦するという方法を編み出しました。
その方法とは、聞かれた単語をまず英語で定義して、例文やコロケーションを思いつく限りつくり、派生語や類義語・対義語を思いつく限り挙げ、最後に用法や語源を説明するというものです(すべて英語で)。
ポイントは、もう、「その単語を知り尽くしているぜ~」ぐらいの勢いで英語を話しまくることです。それができたら、この先生はただ者ではないと思ってもらえます。(笑)
社会でやったら大人げない対応ですが、先生の英語に対する生徒の信頼を勝ち取るにはけっこう良い方策だと思っています。
「やべ~ どうやったらそんなに英語できるようになんの?」と聞かれたらもうこっちのもんです。
生徒は発音に厳しい
生徒は先生の英語力に敏感なものですが、中でも先生の発音には厳しい目が向けられます。
発音とはまあ、言ってみれば一番「表面的な」語学力ですので、目につきやすいわけです。「あの先生の発音はダメ」「○○先生の発音ってどうなん?」なんて言ってる子どものなんと多いことか。(まったく、私に言わなくてもいいものを。)
子どもに限らずですが、私たちは英語が得意だろうがそうでなかろうが、「良い発音」みたいなものは本能的に見抜きます。なんとなく「あの人の発音は上手だな」みたいなのは割と誰でも分かるものです。
裏を返すと、「発音」以外において、生徒が先生の英語力をぱっと見で判断するのはなかなか難しいものです。授業ではある程度決まったことをやるので、形式上はそれほど卓越した英語力がなくてもできるのは確かです。
謂わば、生徒が先生を査定するいちばん手っ取り早い基準が「発音」なわけです。
私も自分の英語の発音に自信なんてまったくありませんでしたが、発音には一方で相当気を使っていました。教科書の題材も職員室や誰もいない更衣室でぶつぶつ音読して練習していました。(他の先生からは1人で何をぶつぶつ言ってるんだと思われていたことでしょう。)
公開授業の時は英語使用率が上がる
コミュニケーション重視の傾向を反映して、「英語の授業は英語で行う」ということが一応規定されています。
私が高校生だった10年前は、予習として教科書を訳して授業で訳の確認をするのが主流でした。文法の授業では、家で問題を解いてきて、当てられた人が黒板に書いて答え合わせ、みたいな感じだったわけです。
一方、今はあまりそういった授業をする先生はいません。「英語の授業は英語で」という「建前」ですので、文法訳読はどちらかというと敵対視されがちです。(4技能改革の暗雲が立ちこめる中、この方向にも揺り戻しが見られるのは確かですが。)
すべての先生が「英語の授業は英語で」やっているわけではありません。小中学校はまだしも、高校の英語授業は語学学校のようなスタイルでやっていくことは難しいです。少なくとも、私には難しかったです。
実際には英語で話した方がいいところもあれば、日本語で話した方がいいところももちろんあります。当然です。
私は、「こういったことは英語で話す方がおもしろいかも」と思ったところは英語で説明したり授業を進めたりしていました。ことばに対して目が開かれるような効果があるなら、「英語で授業」の使い時であるかなと思っています。
一方で、文法の比重が大きいときは、ほとんどすべてを日本語で説明していました。多くの高校の先生が同じようなスタイルだと思います。
ただ、面倒なことに「建前」では「英語の授業は英語で」と文科省から規定されています。
そのため、おもしろいことに、公開授業や研究授業のときになると、「英語を使う割合を高くしないと!」となっちゃうわけです。
「英語で授業」の研究授業は私も結構体験しました。自分が教育実習をしたときもそうでした。
管理職は当然「英語は英語で」みたいな授業を評価しがちであるのも確かです。「オールイングリッシュ」は本当に評価されるなあという印象があります。
大人の争いがすごい
なかなかブラックな話になってきますが、大人の世界でも争いはあるものです。
先生同志の争いほど醜いものはありません。ただ、誰もがそれなりのこだわりをもって仕事をしているんで、争い、陰口、対抗心なんてものはやっぱり起こります。これには職場の雰囲気や土地柄なんてのも関係しているかもしれません。
私の印象では、年配の先生や権威ある先生ほど争いや誹謗中傷のまっただ中にいるような・・・。
私の学校でも、本当にここに書けないようなことが、もういろいろとありすぎるぐらいありました。(笑) 今振り返っても、あの大人の争いはまったく酷いものだったなあ。子どもが点数を競っているのより醜いもんです。
学校の先生と塾や予備校の先生の争いみたいなのも昔からありますね。
学校は「塾なんか行かなくても学校の勉強をしっかりすれば学力はつく」なんてことを言いがちです。もちろん、みんなではありませんが。
一方で、予備校の有名な先生が学校の英語をボロカスに批判するなんてこともあります。予備校が主催する教員向けの研修みたいなものが定期的にあるのですが、それに行った先生が「批判されすぎて辛くなる」みたいなことをもらしていました。
他教科のことは分かりませんが、私は最初、結構な衝撃を受けました。どんだけ悪口言うんだよ、みたいな。まあ最後の方は慣れましたが。
まとめ
いろいろ書きましたが、これはあくまで私が体験した職場での事例です。すべての学校、すべての先生に当てはまることでもないと思うので、その点はご留意ください。
昨今の社会情勢の影響か、学校や先生への風当たりは強くなっていますが、先生というのはそれでもとてもおもしろい仕事だと思います。
学校の先生が尊敬されない仕事になりつつある(or なってしまった)のは、様々な要因が絡み合っての結果だと思います。お金、社会情勢や家庭・学校をめぐる状況、ひとりひとりのプライドや優越感、劣等感、優しさや愛情や悔しさなど、システム上の要因にいろんな感情が絡み合って蓄積した結果、いまの状況が生まれています。
まあでも、英語を使えるという時点で、教えるのが好きだろうがそうでなかろうが、私は魅力的な仕事だとも思います。
大人の争いなど、マイナス要素が英語や生徒への愛を超えてこないかが、先生になれるかどうかの分かれ目かなと思いますね。