太宰治に『津軽』という作品がある。どういうわけか分からないが私はこの小説がとても好きである。いつか津軽を旅したいと思い続けて何年もが経った。そして、今春、ようやく青森県津軽地方を訪れる機会を得た。
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蟹田の観覧山から

灰色の雲からわずかに青空がのぞいていた。
4月の青森県は、まだまだ寒く、外ではダウンジャケットが必要なぐらいだった。
目の前には津軽海峡が広がっている。私は午前遅くに青森駅をレンタカーで出発し、津軽半島を北上、中間地点の蟹田へ来ていた。
その朝、私は寝坊していたのである。ホテルのチェックアウト時間を過ぎても起きてこない私にフロントから電話があった。その時間まで寝ていた私であったが、「チェックアウトのお時間ですが」という電話で飛び起きたわけである。
チェックアウト時間に間に合わなかったら追加料金という注意書きはあったが、請求されることはなかった。東北のホテルの懐の深さに感謝して私はレンタカーの営業所へ向かった。
私にとって、2年前に自動車教習所を卒業して以来、初めての運転であった。そもそも運転の方法を覚えているかすら不安であったのは言うまでもない。(ハンドブレーキをかけたまま発進しようとしたことは触れないでおこう。)
しかし、私の運転への不安は田舎の広々とした道路によって少しずつほぐれてきた。そして、一度駅前を脱すると、そこは広い道にまばらな車という風景が広がっている。なんともペーパードライバーには優しい街である。
青森市から津軽半島の先端、竜飛崎へ向かって北上していく。
最初に降り立ったのが、蟹田という街であった。小説『津軽』では、太宰が友人とともに休息する街である。
太宰はこの街でSさんという人から熱狂的な接待を受けたことをおもしろおかしく記している。この旅の最後、私も同じような心温まる接待を受けることになるのだが、蟹田の時点ではまだ知らない。
蟹田~竜飛
蟹田には太宰一行が休憩した観覧山という小さな丘がある。「風の町」蟹田だけあって、4月の冷たい風が吹く中、私はその山を登った。この辺になると、平日ということもあるのかもしれないが、どこに行っても人はいない。
津軽海峡を臨む静かな丘は、私にとってとても心安らぐ場所であった。
観覧山には、太宰の死後、祈念碑が建てられている。佐藤春夫の筆で、『正義と微笑』の一節が刻まれた碑が風を受けながら港町を見下ろしていた。

蟹田を後にした私は、海外線をさらに北へと進んだ。
海岸線を進んで、津軽半島の北端、竜飛崎まで車を走らせた。途中は三厩の義経寺なども立ち寄ったが、特段印象的なものはなかった。
竜飛先近くには太宰治文学碑がひっそりと据えられている。小説『津軽』より、竜飛崎についての記述が刻まれている。
平日の昼間ということもあってか、蟹田だろうが、三厩、竜飛だろうが、とにかく人がいない。文学碑は海から吹く風を受けて、ただひっそりと佇むだけである。
この世界の人口のうち、この地へと足を向け、文学碑を目にする人は幾人であろうか。時代が変わって忘れ去られるかも知れないし、再発見から人が押し寄せるなんてこともあるかもしれない。
令和の世になって、津軽にはなにが起きるのか、海風に向かって問うても答えはない。

竜飛~五所川原
竜飛からは、内陸を通って津軽鉄道の発着駅・五所川原へと向かった。
日本海側の海岸線を辿る竜泊ラインもあったのだが、その道を使うことはなかった。その途中にある小泊という町は、どうしても別の方向から行きたかったのである。
そういうわけで、わざわざ内陸から津軽半島の中心に位置する五所川原へと南下していった。途中、夕暮れの芦野公園で休憩することにした。
芦野公園までくると、太宰の生家である金木からすぐのところである。この辺はある意味、「太宰観光」の中心地である。どこにいっても生誕110周年のポスターが貼られているような印象を受けた。
芦野公園も平日の夕方は、ただただひっそりしている。湖畔には太宰治の像が建っている。青森を巡ってきて、始めて文豪の「姿」を目にすることになったのであるが、なんとも不思議な感覚に襲われた。
ここに彼の作家が、生きていたのだ。
私にとって、有名な人物の像を前にして受ける、初めての感慨であった。
その後、津軽鉄道芦野公園駅の旧駅舎を改良した喫茶店でカレーを食べ、五所川原の宿へと向かった。
五所川原はJRと津軽鉄道が乗り入れる地方都市である。駅前のわびしい通りのカフェは何とも雰囲気があってつい長居してしまったものである。
五所川原~金木
翌日は、五所川原から太宰の生家がある金木へ向かい、小説『津軽』最後の地である小泊を目指すことにしていた。
金木は、周辺ではいちばん観光地化された場所である。太宰の生家は「斜陽館」という文学館となって現在多くの観光客を受け入れている。
私はその日の朝、五所川原を早朝に出て、津軽鉄道で終点である津軽中里駅まで向かった。そこからバスで、小泊を目指すつもりであった。
ここでこの旅の最大の失敗がやってくる。
早朝の津軽中里駅はまだ冷え込んでいたので、私は駅舎でバスの時間まで待つことにしていた。そして駅でぼーっとしていた私が気づいたら、お目当てのバスはすでに出発していたのである。
私は一気に目が醒めて、バスが走り去ったであろう方向へと向かって何も考えずに走り出した。まあ、田舎のバスである。バスはあっという間に走り去る。走ったところで追いつけないと悟った私は一人津軽中里駅で途方に暮れた。
まったく、なにやってんのよ、自分。結局、私はいつもここぞというところで大切なものを失ってしまうのだ。
都会なら次のバスに乗れば良いだけである。そして時刻表を見たところ、次のバスは、なんと4時間後となっている。私が向かおうとしている場所はそれほどの場所であったわけである。
駅に貼られたポスターを眺めたりしながら思案したのであるが、結局、津軽鉄道で金木まで戻ることにした。先に斜陽館やその周辺を回ってから、昼のバスで小泊まで向かうことにした。
斜陽館は大きな博物館の様相を呈していて、私は朝の開館と同時に入った。
おかげで館内にはほぼ私だけであった。これはありがたいことであった。私が1時間ばかりかけて館内を見て回った後に、どかどかと団体客がやってきたからである。興味もなさそうに説明を聞いている人もいた。

金木には斜陽館の近くに、「太宰治疎開の家」という場所もある。そこはひっそりとしていて、私好みの場所であった。支配人は太宰についていろんなエピソードを教えてくれた。
ファンはこちらも訪れるべきである。作品が生まれた場所、作品で描かれた場所がそのまま残っている。
そこに生きた太宰の姿が思い浮かぶような静かな場所である。
金木~小泊
斜陽館の向かいにある物産館で昼食を済ませた私は、今度こそ乗り過ごすまいと小泊行きのバスを待った。
ほどなくして、ところどころ外装がさび付いた、古いマイクロバスがやってきた。これが今回乗るバスである。私は小学生の時に乗ったスイミングスクールのバスを思い出した。前に料金表の電光板があることで、かろうじて路線バスの体裁を保っているようなバスである。
乗客は最初6人ぐらい乗っていたが、道のりの半分もいくと私だけになった。1日6本運行しているバスは私を乗せて、どこにも止まることなく十三湖を過ぎて、北上していった。
(もう、ほぼタクシーやん。)
小泊は『津軽』のクライマックス、文豪がある思い出の人と再会する場所である。金木に生まれ育った太宰でさえ、このとき始めてバスで小泊を目指したとある。地元の人ですらほとんど訪れることはないような場所だったわけである。
この場所だけは、文豪と同じく、津軽鉄道とバスで来たかったのである。同じ道を辿って私も過去に生きた人の影と邂逅したいという思いがあったからである。
海岸線が見えてきたら、目的地が近づいてきていることが私にも分かった。
バスのすぐ外には日本海が白い波を立てていた。いよいよ目的地に近づいたところで、バスは山道を蛇行しながらぐんぐん登っていく。眼下に日本海を見下ろしながら登り切ったところで、一気に小泊へ向かって下っていくのだ。
地形の影響か、まさに「最後の一山を超えて」といった趣の行程である。

そうして私はこの旅の最終目的地である小泊へと着いたのである。降りたのは「小学校前」というバス停であった。
ここからは特に書き記せるようなことはない。『津軽』が好きなら、実際行って、体感するしかない。
ひとつ、おもしろいエピソードがあった。私がバス停からほど近い「小説『津軽』の像記念館」の前で写真を撮っていたら、やって来た三人組の人から声をかけられた。
どこから来たのか、太宰は好きか、何が好きか、わざわざよう来た云々の話が立て続けあって、私は一緒に記念館のビデオを鑑賞した。
彼らからは質問攻めにあいながらもカレーパンをもらったり、管理人さんからはコーヒーをいただいたりと、予想していなかった歓待を受けることになった。私は内心、小説『津軽』において描かれた饗応の場面を思い出して一人笑いを押し殺していた。
新潮文庫版『津軽』には、蟹田で「Sさん」が周章狼狽、大わらわになって太宰を歓待する場面があるが、それはなんの誇張でもなかった。実際、私もささやかでありながら、おもしろくもありがたいような、そんな歓待を受けたのである。なんのことはない。太宰が描いた地元民の気質は真実であったのだ。

私は一人満ち足りた気分になって、行きと同じバス停から、行きと同じバスに乗車した。
日は傾きかけていて、小学校からは学童たちが先生と一緒に集団下校をしていた。
弘前から
その日のうちに、弘前まで下って一泊した私は、翌日、長距離バスで仙台空港へ向かい、関空から自宅へと帰り着いた。
「意味がある旅」というものがあるとして、今回の旅がそんなものであるかは分からない。どだい、意味なんてなくてもいいと思っている。
しかし、いろんな意味で特別な旅であったのは確かだ。
そしてひとつ分かったことは、かの文豪を愛する人がいつの時代もどこにでもたくさんいるということであった。どこに行っても、なんだ、太宰、好かれてるやん。そんな感想をもつことになった。

小泊にてカレーパンを私にくれた人は、「私は太宰は読んだことないんですけどね~。太宰の何がいちばん好きですか?」と訊ねてきた。
「やっぱり、『津軽』ですね」